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明治用水計画の歴史

この背景には何があったのでしょうか。

都築弥厚の計画
明治用水の計画は江戸時代に始まる。 碧海郡和泉村(現安城市和泉町)の豪農都築弥厚(つつぎやこう 1765年-1833年)の碧海台地に矢作川の水を引き開墾を行うという計画である。(現在の本流、東井筋、中井筋) 都築は1822年に用水路の測量に着手し、1826年に測量が完了した。翌年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出した。願書によると碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村(現豊田市平戸橋町)で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画であった。1833年幕府は都築の計画を許可したが、同年都築は病没した。


水路が地下に埋められた箇所の一部は自転車道として整備されている。(安城市)
伊豫田与八郎・岡本兵松の計画
都築の死後、地元の反対もあり計画は頓挫していた。一方岡崎の庄屋伊豫田与八郎(いよだよはちろう 1822年-1895年)は栗寺村(現豊田市)ら支配地域の排水を改善するために用排水計画を立案し、1851年岡崎藩に提出した。この計画は水路地のある刈谷藩、板倉藩の了解が得られなかったので頓挫した。明治維新後の1872年額田県に悪水路計画を提出した。

都築家が所有していた石井新田(現安城市石井町)の開拓農民であった岡本兵松(おかもとひょうまつ 1821年-1903年)は、当時開墾したばかりで畑地ばかりだった新田に水路を作り水田に変えるべきだと考えた。都築の計画を知った岡本はその実現を決意し、1868年京都民政局に計画を提出した。維新の混乱期で行政機関がめまぐるしく変わったためたらい回しを受けた。そのため、1872年額田県に計画を提出した。


水路(豊田市)
[編集] 伊豫田・岡本の計画の合併と明治用水の完成
伊豫田・岡本の計画の提出を受けた県庁の働きかけにより両者の計画は合併することになり、伊豫田・岡本は1875年愛知県令に用水路掘割溜池不毛地開拓再願書を提出した。この計画に対して地元農民は反対する者が多かったが説得に当たった岡本は「工事ができあがれば、恨む村は三か村、喜ぶ村は数十か村、なにほどのこともない。」と述べたといわれる。1879年に本流の工事が開始され、1890年には完成式典が挙行された。また、同年には中井筋、東井筋の工事が始まり完成している。西井筋は1891年に完成した。またこの年に明治用水と命名された。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年12月20日 19:21に投稿されたエントリーのページです。

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